いつも使いかけのノート。
季節が巡るたび、いつも新しいノートの、最初のページを開いては、これからはじまる何かに期待していた。
最初のうちは丁寧に文字や数式を書き込んで、ノートを取ることそれ自体に熱心になっていたけれど、最後まで使い切ったことがあるのは、果たしてどれくらいの回数だったのだろうか。
次のノートに移ることも時にはあったけれど、しかし、気持ちを新たにするようにして、どこかのタイミングで、新しいノートを手に入れていた。
あるいは、いつも使いかけのノート。
あれはいつの頃だったのか、中学校の終わりか、あるいは、高校に通う頃にはルーズリーフを好んで使うようになっていた。
これならいつだってはじまりは新しいし、ノートの一冊、決して終わりが来ることもない。
そう、使いはじめたあの頃は、はじめることや続けることばかりを考えていて、何かが終わるなんてことは考えもしなかった。
しかし、現実におけるページがめくられていくたびに、または、ルーズリーフの枚数を重ねていくたびに、ここからはもう何も続かない、それで終わりということのいくつかを経験するようになっていた。
それは、使いかけのノートをまた開くことがないように、重ねたルーズリーフもまた綴じることなく無造作に置かれたまま。
どこか寂しげに、どこか所在なさげにある様子は、どこにもたどり着かない私の気持ちみたい。
あるのは、いつも使いかけのノート、重なったルーズリーフ。
終わりははじまり、そんなことは頭ではわかっているつもりでも、何度も終わりを迎えていくうちに、また新たに何かをはじめるということに臆病になっていたのかもしれない。
何かをはじめれば、ただ終わりに向かうだけ。
永遠には続かないことばかりある世界の中、どんなことにも終わりがあるのならば、いっそのこと、はじめることをしなければずっとその時は来ない、そう思って私は私をごまかした。
そもそものはじまりを手放す、それは終わりを迎えなくて済むからだ。
はじまりは終わり、終わりははじまり、あるのはその繰り返し。
今、無限にも思える、どこまでも広がるスペースを前にして、何を思う。
何を書き連ねていけば良いのかわからない、しかし、それは何を書き連ねても良い自由と、大いなる可能性をこの手に得たということにはならないだろうか。
思いのままに書き連ねれば、それがあなたの中にある思いなのだから、それを表さずして、何を書き連ねる?
届いています、あなたの思い。
私は、書くために生きるのではなく、生きるために書く。
どこまでも届け、私の思い。
使いかけのノート、続きはいつだってはじめられる。
これが私の、はじめての"ノート"。
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傍島康始(そばじまやすし)/次の"高み"へ@千葉:展示会・イベント関係従事、飲食店勤務などを経て、新しい働き方&仕事の仕方を模索中*#西野亮廣エンタメ研究所*#五星三心占い*#銀の羅針盤*ロック、メタル音楽が好き*親子丼食べたい♪
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