先日の「恋は革命よ!」にちなんで、今年(~来年あたり)の目標のひとつが「法悦の至り」だったことを思い出しました。
自分で言っておいて、迂闊にも忘れそうになるとは何という体たらく。
これですっかり忘れてしまえば、どこにも目を当てられぬーというわけです。
そもそも今は夏の終わりの秋の入り口、"ひと夏のアヴァンチュール"と洒落込みたいのであれば、春のあたりからじっくり備えておかないと間に合わないこと必至です。
そうなると次の盛り上がりは年末か、これはこれで別件で気になる"ありったけ"があるから、またしても見逃してしまうことになりそうです。
だから、あえて意識できるようにと連呼していきたいわけですが、結局は興味の有無のようなところで、実際がどうなるかにつながってくるだけのようにも思います。
そうして、自分の内側をライトで照らすように探ってみても、自分自身の優先事項としてはそれほど高くはないので、何がどうなろうとも、そこで喜ぶとか憂うとかの何かしらを思うということもないのです。
ただ、ひとつの切り口として"大切な人と過ごす"ことを思えば、なるほどそれなりに辻褄は合っているのだなと密かに得心し、ウンウン首肯する次第です。
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また今回も思いつくままを並べては、どこに行くのかわからないけれど、可能な限りの遠さ・深さまでたどり着きたいものです。
どれくらいの(もちろんヴァーチャルな)紙幅を費やすことになるのか、それによっても自ずと行ける先は変わってくることでしょう。
論理の射程の広さと深さにおいて、今いる場所からどれだけ離れられるのか、それが成長や変化の余地であるし、新たな自分との出会いの機会かもしれないからです。
今の足元から1mや10mくらい移るのでは見える景色はほとんど変わりませんが、10kmとか100kmとか越えてくると随分と変わってくるように、ある程度あーだこーだとやらないと行けない領域があるものです。
そのためには、入念な準備体操にはじまり、適度に負荷のかかるウォーミング・アップをこなしつつ、そして、徐々にペースを上げながらせっせと汗水垂らして取り組んでいくわけです。
それが、見えるカタチとしてはどうしても(もちろんヴァーチャルな)紙幅を随分多く費やすことになっている、そういうことになっているわけです。
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そして、徐々に本題に切り込んでいきながら、これについては率直に言っても良いけれど、瞑想、臨死体験、哲学、呼吸、エニアグラム、ミラーニューロンなど、一見すると多岐に渡る分野の書籍にあたっている人は、一体どのような人であるのか想像がつくでしょうか。
先ごろ出版された代々木忠監督の『哲学としてのセックス』(幻冬舎新書/2018年)は、このようなことを取り上げながら、ご自身の80年あまり生きてきて得た経験や考え、または仕事を通じて知り得たことが不可分であるようにまとめあげられています。
そして、内容としては今までの言説や知見を今一度囲うようにしていて、文字通り「完結編」と謳うのが良いのでしょう。
個人の、ひと夏の読書感想文として仕上げてみるのもアイディアのひとつですが、これは多くの人の目に触れて、今一度しっかり考えてみるべき一冊のようにも思います。
それだけに割愛も大いにしていきますし、主たる内容を取り上げることもしないだろうけれど、いくつかの観点はあくまでもベースとして、そこはかとなく織り交ぜていければ良いなと思います。
そして、それはベースであるがゆえに、真っ先に気づくものでもないでしょうが、味噌汁の"だし"のようにじわじわと効いてくるようにも思うもので、同じように感じてもらえたら本望ということになります。
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かねてより言葉にしてもいるのですが、性の話やお金の話はなかなか会話の俎上には上がってこない類のものになっています。
あってもホニャララな人数や回数の多い/少ないとか、誰とヤッた/ヤラないとか、だいたい下世話な表現に終始してしまうのが、まことに残念でなりません。
そして、本の内容も加味してみれば、何をもって「普通」とするのかは言いがたいものですが、きわめて「普通」に過ごしているのではなかなか行き着かないようなことがあるものです。
少なくとも自分においてそうであるし、身近でこんな類の話をする人を見かけたこともありません。
もしかすると、これまでにも身近にいたのかもしれませんし、自分から働きかけなかったから知り得なかっただけなのかもしれません。
このあたりは、ひとつには「類は友を呼ぶ」ことのコツ(THE ART)を知らなかった、自分自身の不徳のいたす、ひたすらそのあたりになります。
それはそれとして、ここの領域を上手に掘り下げていくと、単なる肉体や精神をはるかに凌駕するような貴重な知見に行き着くので、知らないよりかは知っておいた方が良いわけです。
わかりやすい言葉で言えば"悟りを開く"ことができるのではないか、少なくともその手立てやヒントの重要な部分を知っているかもしれないと思うようなものになります。
人によっては、"開眼する"と言い替えても良いかと思います。
それだけに、機会があればとことん話し合ってみたいなとも思うわけですが、今は自分自身の内側で考えを広げて、かつ、しっかり深めていくことが良いことのように思います。
聞かれれば余すところなくお伝えしようとしますが、言葉遣いや発想の仕方において、あらかじめ敷いておきたいことが既にそれなりの多さであるために、本題に突入する前に、興味・関心がどこかに行ってしまうことも考えられるものです。
だから、普段はだいぶ物静かに過ごすくらいで、しかも「あの人、何考えているの?」と思われるくらいで、自分自身は至極安寧な気持ちでいられるものです。
内心ではこういうことが渦巻いているし、今年の年明けからの一連の投稿を覗いてもらえれば、それなりに首尾は一貫しているように思います。
また、こうして先を促すように進んでいることで、余人をもって替えがたいほどに不思議な境地に向かっているような気がします。
それゆえに、物事を観察する態度が加速するものですが、だからといって、それにとらわれているわけでもないのが、余計にわかりづらい境地にいることになるのだなと思います。
一定の"こだわり"はあるけれど、偏って"こだわり"を持たないことが"こだわり"でもあるので、裏の裏が表であるように、一周して元の位置にいるのだなと思います。
それでも、実は一周している分、何もしないでいるよりかは立つ位置が変わっているかもしれませんし、前進だか高みだかに歩みを進めているのかもしれないわけです。
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先の例にあるように、口を開かずとも思うことでは、たとえば、道行く人でも身近な人でも構わないのですが、「その人が一体どのようなセックスを行うのか」、そういう観点で見るとその人の本質をグイッと引き寄せるようにして、知ることができるように思います。
あるいは、「どのような歩き方」をするのかがその人の本性を反映しているなとも思っていて、それとなく観察を続けています。
それはさておき、決して「あなた」と「私」でいたすーわけではなくて、他の誰でも、その人が誰かと真っ向から向き合う時に、どういう振る舞いを行うのかを知ることで、どういう考えや行動のもとに普段を過ごしているのかを擬似的に知ることができます。
経由して、ほんのりとうかがい知ることができると言っても構わないのですが、ごまかしも虚勢も張れない時にどうであるのかは、かなり大切なことのように思います。
これは、後にも詳しく述べたいことでもあるのですが、平素何を基準として考えたり行動したりするのか、その人なりの固有のものがあると思います。
それと連動するように、目の前のあれこれに対応して日々が営まれていくのであれば、たとえば、何をもって"幸せ"と思うのかで、幸せの感じ方がそれぞれにあることになります。
それについては、個々で自由に思えば良いことなので、取り立てて何を言うことはいたしません。
これを敷衍して考えて見ると、多くの人にとって、勝手がわからない、どうしたら良いかの正解がわからない状況や事態がしばしばあるかと思います。
そのような、ある意味土壇場にある時にどう振る舞うのか、その振る舞い方がその人の本性が垣間見える瞬間なのかなと思います。
普段は饒舌に何でも話すような明るい人でも、誰かと(しかも一糸まとわない姿で)向き合う時に、素直に「好き」とか「こうしてほしい」とか自分の感情や気持ちを言えないし、それを不自然なままにためらっているということがあるわけです。
それも、急にノドが詰まったように言えないとなると、よほどのものがその人の中にあるのだなと思うわけです。
こういう光景を目の当たりにすると、「あー、こちらの持っていた(最初の)印象とは異なるものだな」と、何だか不思議な気持ちになるものです。
また、似たようなことでは、普段いろいろと強い抑圧を受けているがために、深く呼吸をすることができない人も随分と多くいるようなのです。
意識・無意識と呼吸では関連がないようにも思うものですが、素直に感情を言えない、姿勢の悪さも相まって呼吸が浅いような人がいて、パッと見は問題がなさそうでも、抱えているものが重大だという人が意外どころか、随分と多いような気がします。
いくら外見を着飾って整えたとしても、内心ではとか、本心のところではとか、当の本人にとっても周りの人にとっても何もわからないことは多いのかもしれません。
これは同時に、自分自身を少なからず偽ろうと思っているのかもしれませんが、自分自身のことをしっかり知らないでいるうちは、他の人をしっかり知ることなどできようがないように思うものです。
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奈辺をこのあたりとしてみると、普段、色恋だなんだとやっているような場合でも、スタイルがどうこう、大きさやカタチがどうこうということは、実際にはほとんど関係がなくなってくるように思います。
見た目でどうであるかは多くの人にとってわかりやすいものですが、"一緒にいること"と"仲が良いこと"は決して同じではないことにも気を向けなければなりません。
あるいは、何回デートをしたから親しさが何%増したということでもなくて、どれだけ親密になることに真摯であるのか、決して測れないところが大切になってくるのでしょう。
また、相手を知ることが自分を知ることにもつながってきて、相手との差異や共通項が浮き彫りにしていくものです。
こういうことを下卑た感じにもならず、揶揄するようなことにもしないで、「今日の空は、快晴でサワヤカね」くらいの、きわめてライトに語れると良いなと思います。
基本的には、こういうのは"秘め事"であって、個別にイチャイチャしたり、よろしくやってくれれば構わないのですが、一方では人類・人間存在に共通のものでもあるわけです。
それなりに、経験や知識を持ち寄ることもできたら良いし、より良いもの、より本質に近づくであろうことを、忌憚なく話し合えたら良い気がします。
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【②に続く】→
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傍島康始(そばじまやすし)/次の"高み"へ@千葉:展示会・イベント関係従事、飲食店勤務などを経て、新しい働き方&仕事の仕方を模索中*#西野亮廣エンタメ研究所*#五星三心占い*#銀の羅針盤*ロック、メタル音楽が好き*親子丼食べたい♪
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