振り返りと今後の見通し


ブログ振り返り


ここでは簡単に報告するに留めますが、別のところでこれまで続けてきたブログを、また別のところに移して、保存することにしました(エクスポート→インポート機能の駆使)。


時期的にはここ3〜4年のもので、わりとみっちり取り組んでいたものだけに、今後の、ある期間をもって消えてしまうのが惜しくて、ひとまずの間、残すことにしました。


その、別のところに移して保存したものを、見た目や表示など、技術的な観点で問題がないか、それを主としてひと通り見返していました。


そこで思ったのは、いつも考えていることはだいたい通底しているということ、あとは、時期によって多少の変化があるということ。


これまでのものを改めて&まとめて見るということは、それはまた今後どうしていきたいのかの手がかりともなるし、振り返る&考えるのに良い機会であるとも言えるかもしれません。


また、更新する頻度や取り組み方など、書くスタイルが変われば、内容も自ずと変わるということで、今後のことでは特に、何かをあらかじめ決めておくことはしなくて良い気がします。


出たところの勝負というか、あるがままというか、大概の物事はなるようになっていくのだから、意図して何かをするということはしなくて構わないということです。


それと同時に、今年以降のしばらくは、新しいものを取り入れたり、迎え入れたりするのが個人の運の流れとしても好ましい、または望ましい心がけであるというので、このタイミングで深く刻み込むようにして、強めに意識しておくのが良さそうです。



それにしても、長めの文章、長い文章を続けて書いていると、段階的な変化を経ながら、少しずつ巧みになっていくようです。


これは、必ずしも今の自分が十分に巧みであるということでなく、その巧みさの道のりは果てしなく、ここまでできれば十分だということはありませんし、これからもさらなる研鑽を積んでいきたいとも思っています。


それは、文章自体の表現とか、レイアウトに関わる工夫とか、直接・間接問わずにということで、細部に目が行き届くと同時に、全体を見渡すことも、少しずつできるようになっている気がします。


どれだけ良いものになったかは、読む人の判断に任せるところも多いわけですが、当初は、いくらか緊張して動作がカクカクとぎこちなかったけれど、続けていくうちに、わりとスムースに人前で話せるようになった時の心境に似たものを、自分自身では感じるものです。


これも、はじめは手探りであっても、数を多くこなしていくことでわかってくる境地で、自分の以前と以後は地続きなので、何かをすっ飛ばして今のようになったということではありません。


ある意味、時間を味方にして自分自身が成長しているというわけで、何がどう変化しているのかは、自分自身では、意外と感じにくいことのように思います。


これも、周りの人が見ているとわかるとか、時間を空けて比べてみると確かにそうなっているというような、そういうことのひとつなのでしょう。



投げかけたものが返ってくる


「エコー・チェンバー(Echo Chamber)」、元の意味としては、音楽の録音に用いられる「残響室」のことで、音がはね返ってくる構造を有している部屋のことを言います。


ここから派生して、"エコー・チェンバー現象"とか"エコー・チェンバー効果"と呼ばれる、自分の意見や考えと同じ人と共鳴していったり、場合によっては結託していったりするようなことで用いられる言葉です。


最近では、FacebookやTwitter、こういうブログなどの各種SNSで見受けられるものとして、どちらかというと否定的なことで注目されているように思います。


それは、近しい人たちでいつも凝り固まってしまうとか、意見が特定の方向に流れてしまうようなことで、果たしてそれは"正しさ"や"良いこと"などと照らし合わせてみてどうなのかということです。


良い方向に使えば、多くの知恵や知識が結集して、自分たち自身が、あるいは、社会や世界全体がより良いことになっていくし、一方で、良くない方向で使ってしまえば、それに従った相応の結果になってしまいます。


包丁が、肉・野菜・魚を切って調理するのに使えば、便利な道具となるわけですが、これを、誰かを傷つけるのに使ってしまえば、それは凶器になってしまいます。


火にしてもそうですが、焚き火をして暖まれば、または調理に使えば役に立つということですが、家屋を燃やしてしまえば犯罪行為の放火になってしまいます。


これはまた、言葉遣いや行動の仕方によって、誰かの助けとなるかそうでないかに分かれてくるということで、包丁や火の扱いと同様のことであると考えられます。


ただ、それでも、良いように使っていきたいと思うのならば、どうしていくのが良いのでしょうか。


大勢の人が考える、"正しい"とか"良い"ということの妥当なあたりを知りながら、自分自身でもそこを目指していくのが望ましいものです。


このあたりは、マザー・テレサの「反戦集会には行かないけれど、平和集会には行くわ」という言い回しを引用して、大切なことを示唆していく次第です。




こういうことでも、どこに軸足を置くかによって、対応の仕方が変わってくるのはあるように思います。


確かに、自分の発信したものが、大いなる反響を得たり、同意をしてもらえたりすれば嬉しいものの、そこにとらわれてしまっては、かえって大切なものを失ってしまうかもしれません。


「いいね!」を多くもらううちに、または、多くの「いいね!」をもらいたいがために、何か大切なことを損なってはいやしまいかと、いつも心のうちで点検するようでいたいものです。


自分自身の評価や印象がどうなるかどうかとは別に、良い意見や、好ましいと思う意見が、より多くの人の目に触れ、なるほどそうであると思ってもらうことの方が、真っ先に果たされるべきひとつであるように思います。


たとえば、各種SNSでは、自分自身が目立つために「バズる(想定をはるかに超えて、多くの人に注目される)」のではなく、多くの人が好ましいと思ったから、あるいは、より多くの人に知ってもらいたいと思ったから、注目が集まったと見るべきではないでしょうか。


時として、予想だにしないほどの、身に余るような評価を得るようなこともあるのだから、普段から自分の身の程を適切に知って、決して目の前の状況を見誤らないようにしていくのが良い気がします。


また、自分たちが同じ意見、似たような感覚を持っていることは、強い仲間意識を持つことになりますが、意外とこじんまりとまとまってしまったり、内側の結びつきを強くするために、外側に敵対する関係をつくってしまったりすることもあるようです。


いつも奢らず、いつも卑下することなく、淡々としながら健全に振る舞うということも大切なことかもしれません。



そのためには、普段自分が目にするもの、耳にするものなど、チェックしているものの最適化を図ることも大切です。


それは、ビッグデータに基づく分析がこちらに見せたいものを見せるということではなくて、自分が何を見たいのか、何をみると良いのかの最適化を目指すということでもあります。


自分の意見に合っているかどうかもあるけれど、その意見の向きが全体のどのあたりにあって、どこに向かっているのか、そういうことも知れるようでありたいものです。


もしも"真っ当な"ところに向かっているのなら、同じ山を異なるルートで登るようにして、一見すると相入れないような意見も取り入れていくのが、妙な偏りが出なくて良いように思います。


時に、耳が痛い意見ですら、それは自分自身を省みて、成長をうながすキッカケともなりますから、それを発している人や意見に、一貫した筋が通っているかを見るのが良いでしょう。


そのような状態に自らを置くということは、何にももたれかからないようにすることでもあって、そのために、日頃からよく学び、よく考えていくことが求められるような気がします。


いわゆる"自立"できているかどうかということで、あくまで身近な人たちや関わる人たちと協力や連携をするとしても、決して依存するところまではいかないということです。


そういうことをしながら、自分自身の意見や考えを表明したり、誰かのそういうものに反応したりして、心地よい響きの多くをもたらしていきたいと思います。




<参考>


「カッコいい」を考えることで、個人の美意識が見えてくる|六本木アートカレッジ スペシャル1DAY セミナーレポート



傍島康始(そばじまやすし)/次の"高み"へ@千葉:展示会・イベント関係従事、飲食店勤務などを経て、新しい働き方&仕事の仕方を模索中*#西野亮廣エンタメ研究所#五星三心占い#銀の羅針盤*ロック、メタル音楽が好き*親子丼食べたい♪

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