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まったくもって続くばかりの今回において、無事に最後はミラクル回転にて着地できるのか、今は定かではないけれどやがて終わることはわかっています。
ある程度の一貫性でもって取り組んでいるだけに、散らかしたままで終わるということはありません。
伏線も、別に伏線と思って張り巡らしているわけではないし、"ハウダニット"や"フーダニット"の類でもないので回収しきれなくても構わないことでしょう。
そんなこんなで、"これで終わります"③をお楽しみくださいませ。
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人それなりに生きていくと、長年の習慣やクセみたいなところが、その人と不可分になってくるもので、どのような言葉遣いをしているかが、その人を表していることも多くあるものです。
前向きな人は、いつも好意的な解釈をする傾向にあるでしょうし、そうでない人はそうでないようになっているものです。
このあたりの、「文体とエクリチュール」という関係が興味深いところでもあるのですが、とにかく、どのような言葉遣いをしているのかで、普段の生活がどう動いているかにつながっていくものです。
そこに付随すれば、場合によりけりというところもあって、基本的なところとその時々の、ある意味臨時の対応をすることがあります。
そのためには、いくつかなのか、いくつものなのかは好みで良い気がしますが、複数のスタンダードを自らに設けておいて、その時々で対応するのが良いと言えるでしょう。
うどんやそばの麺打ち職人が、その日の気温や湿度によって麺に含ませる水分の量を調整するように、巧みに使い分けることに似ているように思います。
それを、ひとつの"ゆらぎ"と呼ぶのかもしれないけれど、向こうへ振れてこちらに振れてとなりながら、意外と一定の範囲をたゆたっているものかもしれません。
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そういうものを知っていてやっているのと、何となくの感覚でやっているのでは、見た目は同じでも、内実は雲泥の差ということもあるはずです。
しっかり厚みのあるサーフボードにつかまって波間にゆらいでいるのと、何もつかまるものもなく、波に翻弄されるがままに揺れているのでは、似ているようでも随分と隔たりはあることでしょう。
しかも、こういう"ゆらぎ"が、思考や感情において浮き沈みのあるような上下の動きでなく、より多彩であるという方での左右の振り幅につながるのであれば良いように思います。
自分自身においては、こういう不安定さが、かえって気持ちを落ち着かせることになっているのではないか、最近は特にそういう考えのもとに日々を過ごしています。
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果たして、人はそれぞれわかり合えることができるのでしょうか。
あるいは、人は、わかり合えない。
そのように考えることも、必ずしも誤りとは言えないものです。
なぜなら、自分のことだって、何を考えているかわからないのだから。
しかし、このような問いかけに対して、「お互いにわかり合えないよね」というところで合意が取れるような、そういう頭の使い方ができるのは、だいぶ建設的であるように思います。
また、無駄を排するように即座に解決にしてしまうのと、迂回を多く経ても知的負荷がかかる方では、自分自身は後者を選んでいきたいと思っています。
そして、わかり合えないところを数え上げるより、それは随分と少ないかもしれないけれど、わかり合えている方をうんと大切にした方が良い。
これもまた、コップに半分ある水をどうとらえるのか、考え方と日頃の習慣による賜物と言えるでしょう。
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さらなる問いかけになりますが、自分の生まれてきた意味や、生きていく意味を、あなたは言うことができるでしょうか。
自分自身で、「さて、生まれて、いっちょ生きてみるかー」と思って世に出ている人が(ほとんど)いないように、ポンと生まれ出た瞬間から時を刻みながら生きることがスタートします。
ある意味では本人の意思どころでなく、時間や場所や置かれている状況など人それぞれで、しかし、否応無しに生きることをはじめていくしかありません。
どのような境遇であるのかも選び取れませんし、それ自体その人固有のもので、誰にとっても余人をもって代え難いわけです。
ただ、誰にとってもその人固有であるということは、孤独の裏返しでもあって、それだけに出身地や年齢が同じであると妙に嬉しくなるのは、他の人と自分の間に、何かしら共通点があるという喜びが大きいのかということが考えられます。
どうやって生きていくのか、それは一筋縄ではいかないかもしれないけれど、目の前のことに精一杯取り組んでいるうちに、やがて長い年数を経るうちに、生まれてきた意味を知ったり、生きていく意味がわかってきたりするのかなと思います。
今、それなりに生きてきたからわかることがあって、これが過去のどの時点でもわかり得てはいないなということがそこかしこにあるものです。
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ようやくまとめに取りかかっていこうと思うのですが、自分なりの物事を見るモノサシのような、判断の基準となる考えを持っていると良いと思います。
こういうものを、まさしく規矩として持っておくことで、取り組む具体的なあれこれは異なったとしても、根底にあるものは似通っている場合があるものです。
何を食べるにしても、箸やスプーンを使うかもしれないけれど、何か取ったりすくったりして口に運ぶことでは共通していると考えるような感覚です。
そして、一歩でも前へなのか上なのかはわかりませんが、歩を着実に進めていくことで、世の中の真理や本質に近づいていけることでしょう。
少しずつであっても、そうなれるように、日々を大切に過ごしていきたいと思う次第です。
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魂は崇高なるものだけれど、この世で生きている限り、現実的には肉体を介さないとどこにも行けないものです。
また、心が動けば涙が出るように、心やカラダは決して別個のものでなく、ひとつなぎのものでもあります。
心と魂は似ているように思いますが、心の深いところにあるのが魂と考えると、これもまたつながっていると考えられます。
魂は別に扱うとして、そうして、心とカラダ(肉体)、思考や論理を司る頭(あるいは、脳)とをセットにして考えてみると、決して頭でっかちになるわけでもなく、行動で動き回るだけでもなく、感情に任せるがままでもないことになってきます。
これら3つと魂の、取り上げ方や組み合わせはいくつかの例があると思いますが、頭で考えながら、心とカラダを使いながら魂の充足を図るのが良いということはひとつ言えることのように思います。
こういう結びつきは、決して目には見えないものだけれど、だからといっておろそかにしてはいけないものでもあります。
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ここまで述べておいて言うのも妙なものですが、自分自身は決して論理・理屈のタイプではないのです。
自分自身が普段何を考えてみるのか、それを知ってもらいたいがためにあれこれと述べているのもありますが、それ以上に、しかるべきところにはとても有用な知見が蓄えられているということ、その事実に意識を向けてもらいたい思いが強いものです。
それだけに言葉や例証を多く持ち出して、(もちろんヴァーチャルな)紙幅を費やしていき、何か説明をするとか、自分の考えを披瀝するような場合では、とことん"情理を尽くす"ことを心がけています。
時間や分量の限りはありますが、それにしても「感情*論理」の組み合わせになります。
そして、今は特に観念的な領域にも飛び込んでいて、これはまた少し軸層が異なってくるものになります。
それぞれ固有に大切なものでもあるし、「あなた」と「私」の相互の関係によって引き立つもこともあるでしょう。
そういうことを介在しながら、お互いに、世の中の真理や本質にまで届いていけると良いものです。
海賊の宝箱も、たしかに空の箱が多いのかもしれないけれど、ずっと開け続けない限りは金銀財宝を収めるものにも巡り会うことがないようなものでしょう。
石をひっくり返してみるとダンゴムシが多くいるのは、苦手な人もいるかもしれませんが、それにしても石をひっくり返し続けないことにはダンゴムシの多くいるところもわからない、そういうことをそれとなく感じ取ってもらいたいものです。
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先述の「文体とエクリチュール」にも関連して、何かを言おうと思っている場合に、言葉を駆使し、文体にも気を配りながら推し進めていくことになります。
ただ、言葉や文体は、ここから遠くだか深くだか行くために用いる乗り物や地図のようなもので、それ自体が目的ではなく、あくまで手段に過ぎないものです。
これらを熟知し、いかに使いこなすかによって、思考や感情においても未だ知り得ぬところまで行き着くことができるようにも思うものです。
日本語にしても、それ自体にある叡智や極意みたいなものがあるために、普段の会話で出ている語彙や表現など、かなり限られたものであることでしょう。
いかに考えを深めるのか、いかに多くの人に訴えかけることができるのか、そういう営みを繰り返したり、内容や表現において上達したりしていくことで「人と成る」のであれば、言葉や文体でもって人格陶冶をするというのは平仄が合うことのように思います。
そして、それを目指していきたいとも思うものです。
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今回はだいぶ長くなりましたが、これだけ述べていけば自分自身にも、そして、ここまで読み進めてきた「あなた」にとって、もたらす何かがあることでしょう。
その中に、少なからず共感するところがあるようであれば、「類は友を呼ぶ」ように、良きつながり・結びつきが生じる可能性があることになります。
少なくとも、ここまで読み進めてしまったからには、引き返さなかっただけの理由や背景があるのでしょうし、かなりの忍耐・忍辱の備わっていることの証左であるように思います。
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今の時点で狙っていることは明示しにくいものでもありますが、何かしら"閾値を越える"ためにもこれだけの分量が必要だったということはあったのでしょう。
また、何かの折には、もう少し読みやすい分量と内容においてお届けできたら良いなと思います。
次にお目にかかるのはいつになるでしょう、再会の時を待ち望むその時の流れが、今は心地好いと言うことができるような気がします☆
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傍島康始(そばじまやすし)/次の"高み"へ@千葉:展示会・イベント関係従事、飲食店勤務などを経て、新しい働き方&仕事の仕方を模索中*#西野亮廣エンタメ研究所*#五星三心占い*#銀の羅針盤*ロック、メタル音楽が好き*親子丼食べたい♪
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