至高体験・仕上げ③



→【の続き】




繰り返し繰り返し、手を変え品を変えながら言っていって、重複する色濃いところが自分の主張の大半であって、漆を何度も塗って仕上げていくような感覚があります。


あるいは、山道を大きく回っていくうちに高度を増し、次第に頂上を目指していく感覚とも言えそうです。


そうやって、今が全体のどれくらいのところにいるのかはわかりませんが(だいぶ長い)、多くの人が言わないであろうこと、少なくとも自分自身の管見の及ぶ限り見聞きしないであろうことをより積極的に選択していきたいと思います。


また、表面をなぞるだけでなく、薄皮を丹念に向いていくように、真髄にまで触れるようにしてやっていこうと思うことには変わりがありません。


どこから手をつけたものか、目の前に放り出しているような有様で、きっとだいぶ散らかっていることになりますが、言いたいことのいくつかはあるので、それを並べるようにして、それで通底する何かを感じ取ってもらえれば良いなという気がします。


"終わりがないのが終わり"であっても、どこかで目処をつけるようにしたいもの、それでもまだまだ続きます。


ここからまた異なる角度でお届けしようと思いながら、そのはじまり方はいささか唐突なもの。


それについて、いくらか展開していきたいと思います。



自分と向き合い、自分のことを大切にすることにつながる発想で、どんなに小さいなことでも、自分で「やる」と言ったことができない場合、自分自身が思っている以上に自尊心を傷つけていきます。


これは、自分自身のことで自信があるかどうかにも関わるし、無意識のところでも関わりがあるように思うものです。


うんと深い自分の真ん中のところ、どのような局面にあっても最終的なところで自分を信じることができるのかどうか、生きる瀬戸際や根源まで行っても果たして戻ってこれのるかということになります。


もしもそこで越えてしまうようなことがあれば、命途切れるようなことになって、あちら側に渡ってしまうことになります。


または、心もカラダも裸になるようなセックスの場面で、自分に自信がないのは如実に表れてしまうもので、何だかぎこちないことになるかもしれません。


知らないところで自分が傷ついている、それを自分で気がつくことがないというのが、あるいは悲劇なのかもしれないと思うものです。


これは、結構ないがしろにできることでなく、生きやすさとか運気とか幸せとか、そういう目に見えないけれど重大なことに関わるものだと見て取ることができるように思います。


単純に言えば、できないならできないと言うとか、安請け合いせずにやらないと言うとか、その方がよほど誠実と言えるものです。


自分の中で、自分自身と握手やハグができているかどうか、根底のところでしっかり結びついていることが大切です。


そして、少なくとも自分とした約束に関しては、コトの大小はあれどもしっかり守って、果たしていくことが良いと言えます。



今の段階で、自分のやりたいことや目指していることは、何かを手に入れることでもなく、特定の誰かと出会うためだけのものでもありません。


発想のひとつとしては、自分のプラットフォームを築くことが最初に挙げられます。


それがまた具体的なところではないために、見かけと内実がどう折り合いを持つものなのか、それをを知るべきだというのが今の段階になります。


自分にとっての"プラットホーム"、それは単に"ホーム"となり得るものかもしれないし、これを別に言い換えるとするならば何と心得るのだろうという思いがあります。


ひとつの理想としては、アンディ・ウォーホルの"ファクトリー"として、身近にあるようでありたいというのはあります。


理屈としては、もう少しわかりにくくなってしまうのですが、こうも説明ができます。


たとえば、理想の先駆けとして既にそこがあるのなら、自分は十分に関わりたいと思っています。


大きく理想を掲げるのはもちろん大切なことですが、今の手前で、理想の実現がいくらかでもなされているのか、そこを見極めたいし、見定めたい思いがあります。


大層なことを言っていても実践が伴わなければ意味がない、どれくらいがなされているかより、どれくらいなそうとしているかに重きを置きたい感覚です。


そのためには、自分自身が居心地の良いところにせっせと赴いていきますし、自分のいるところが居心地の良いようになるようにするだけです。


そんな、居心地の良いところが自分にとっての"居場所"となるような気がします。


多くの人が立ち寄るように、自分自身がそうなることとともに、自分のいる場所が他の人にとってもそうであれば幸いです。


そのためには、自分の足元を見て鑑みる、それは「跂者不立、跨者不行」とならないように戒めるだけのことです。



稲盛和夫さんの本やインタビューを読んでいて、仕事(売り上げ、成果)を通じて人格を磨くということがあります。


必ずしも技術や小手先の知識でなくて、もっと人としての関わり方があるし、それがあるから仕事が円滑に回るわけです。


これも、あるには越したことがないわけですが多くのお金を得るだけでなく、何をか得るのかということをじっくりと考えてみたいものです。


何をするにしても、人と人との関係で成り立つものなので、「人間」をどれだけ知っているのか、それがコトの捷径だなと思います。


それがまた、自分というものの成り立ちを知る手立てともなるので、得手不得手やいくつもの特徴を知ることになるでしょう。


内面の充実もそうですし、その人がどういう人であるかは身長や体重、髪の長さとも直接関係のないところなので、コンプレックスで悩むことはなくなるだろうと思います。


理屈や数値だけでは読み解けないものがあるし、それをおろそかにしてまで、何をか選ぼうというのか、そんな気がします。


自分の思う正しさが、多くの場合の正しさと重なるようにしていけば、より良くなっていくことでしょう。


もしも自分の意見が通るから正しいのだとなってしまえば、通す正しさが次第に歪曲したり、かけ離れたりすることもあるかもしれません。



こういうあれこれを"ファクトリー"構想とからめて言えば、率直なところでは自分に関わる人を"総じて"幸せにしたいものです。


誰かの笑顔や喜ぶ様子を見ることができるのならば、それが自分にとっても喜びであるし、十分に嬉しい報酬になります。


そのためにも、私と出会って関わるからには、こちらのできる限りのことはしていきたいものです。


常に発展途上の身として、一体何を差し出せるのかということはありますが、基本的な心構え・姿勢として、そこでの私は偉大な自分であれ!と言い聞かせながら関わっていきたいものです。


尊大な意識はないままに、最初はできることから、たとえ微々たるものでもそうやって積み重ねていくうちに、徐々にではありますが、喜ばれる存在となっていくのでしょう。


相手の満足が私の喜びであり、あるいは与えること自体喜びと思えるか、何を知っているのかでなく、何を知って行うのか、そういう発想につながっていくのでしょう。


それに加え、気分がいつも良いかどうか、関わる人やいる場所、目の前で取り組んでいることのいちいちにそれを感じることができるのか、それはとても大切なことのように思います。


それはまた、自分がしかるべき人と出会って、しかるべき場所にいるのか、自分のお役目や使命とも関わってくる感覚でもあります。


ジグソーパズルのピースがしっかりあてはまるように、まさに"自ずと"収まるべきところに収まっていくような気がします。


さらには、自分の知性(知識・経験を含む)は、身近な人たち、親しい人たちのために使うもの、決して自分の私利私欲のために用いてはいけないものです。


"夢より素敵な"素晴らしいところへ、自分も行きたいし、そこに多くの人とともに行きたいものです。


何より、自分に親しく関わることになるのは、まことにありがたい限りなので、それは果たしていきたい約束でもあります。


多くの観点や考えを持つようになりながら、大きくいろいろなことを過不足なく伝えるためには、思考や理屈の深淵をのぞきこむようでなければいけない気がします。


そこは、また"淡い"の部分でもあって、正気と狂気の狭間、虚実皮膜、そういうところに行って帰ってこれるように、だから自分自身の思考や理屈を強靭にしていきたいなと思っています。


誰もがそれをする必要がなくて、それは誰かが担うものであれば良いわけです。



に続く】→




傍島康始(そばじまやすし)/次の"高み"へ@千葉:展示会・イベント関係従事、飲食店勤務などを経て、新しい働き方&仕事の仕方を模索中*#西野亮廣エンタメ研究所#五星三心占い#銀の羅針盤*ロック、メタル音楽が好き*親子丼食べたい♪

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