"お任せ"で生きてみる


いつも過渡期であり

いつもありがとうございます、そばじま(@sobajimaximum)です。


私自身がどこに当てはまるかはわかりませんが、多くの人がだいたい80〜100年生きる時代においては、40代・50代というのは、その前半と後半とを分ける、ちょうど境目の年代なのかもしれません。


仕事について:就職・転職/プロローグ


また、人との関わり、世の中への貢献、喜びを感じるといったことを考えると、生き方と働き方が隣接していると言いますか、重なるところが多いように思います。


風の時代:Age Of Aquarius


人生の前半と後半を分けて考える場合、大きくは生き方そのもの、また、日々の生活における働き方・過ごし方においても、どのように考え、どのように行動していけば良いのか。


今後、何かを付け足すかもしれませんが、「風の時代」における生き方・考え方と合わせ、ひとつの指針となるのが、下記、小林正観さんによる「前半生と後半生」の話です。


前半生と後半生

求めて探して手に入れる「前半生」と、捨てていくだけの「後半生」。捨てるほどに、人生は軽くなります。

就職、転職などの相談を受ける機会も多いので、ここでは仕事に関する宇宙論をお話しします。

仕事というのは字を見てもわかるように、「事」にお仕えする、というのが本来の意味です。そして、すべての仕事は、「いかに喜ばれる存在になるか」という性質を含んでいますから、どのような仕事に就いてもいいと思います。

若いときは、自分の望みどおりの仕事を選びたいと思うのが当然だと思いますが、40代を過ぎ、「人生の折り返し地点を過ぎたかな」と思う人は、自分で「何かをしたい」と考えるより、頼まれごとを引き受けていくスタイルのほうが、楽なように思います。

たとえば、転職を希望するというよりも、自分が今置かれている所で「いかに喜ばれる存在になるか」ということをやっていくと、どうも面白い風が吹いてくるみたいです。


次のページの図のような競技場があるとします(→下記、図の文章化とともに)。

・前半生:努力する、頑張る方が「追い風」、捨てる、手放す方が「向かい風」

人生の折り返し地点を過ぎると、

・後半生:捨てる、手放す方が「追い風」、努力する、頑張る方が「向かい風」

風向きを考えれば、自分が今、どこにいるのかわかる。

競技場の真ん中は折り返し地点になっていて、これは人生の折り返し地点だと思ってください。折り返し地点までが、前半生です。

この競技場を、私たちはマラソンランナーのように走っています。

走る途中には風が吹いていて、人生の折り返し地点まで(前半生)は、努力し頑張ることが追い風になってくれます。

ところが、折り返し地点を過ぎると(後半生)、努力して求めれば求めるほど、同じ風が今度は向かい風になります。逆に、捨てていくことが追い風になってくれるのです。この「捨てる・手放す」のは、物ではなく「自我」(何かをしたい、得たいという思い)です。

人生の構造は、このような原理になっているようで、これは仕事を選ぶ際にも役立ちそうです。

前半生では、夢や希望を持ち、何かを得たいと思うパワーやエネルギーが強ければ強いほど、それが原動力となって前に突き動かしてくれます。追い風ですから押していってくれます。ですから、若いときに自我を「捨てる・手放す」ことは、かえって向かい風になります。

しかし、若いときに追い風だったものが、折り返し地点を過ぎた所から突然に風向きが変わり、努力して頑張って望めば望むだけ、求めれば求めるだけ、それは向かい風になります。

逆に、こだわりや執着を捨てれば捨てるほど、後半生からは、向かい風が小さくなって、追い風の力が大きくなります。

この構造を考えると、今まで信じていたことが前半生と後半生ではまったく逆の力になって、自分にかかわってくるということがわかります。

「折り返し地点」が人生の半分と考えると、折り返し地点を過ぎたと思う人は、捨てて手放していけばいいのです。何かに執着してそれを得ようとするより、自我を手放して、いかにその風に吹かれていくかを考え始めると、状況は一変します。

この構造がわかってくると、もう迷わずに生きていけるのではないでしょうか。

「頑張りなさい、努力しなさい」と言われ続けて、いつまでもその方向だけで人生を組み立てていくと、折り返し地点を過ぎてからは逆風をもろに受けます。

後半生では自我を手放し、こだわらない、とらわれない、欲求欲望に支配されない状態になると、仕事の成果はかえって上がってくるようです。数字を追い求めないと、逆に数字がついてくるのでしょう。

「もう、自分は折り返し地点を過ぎたな」と思う人は、こだわりや執着を捨てていく生き方をお勧めします。風向きに身をゆだねることができたら、ものずごく楽な人生が待っています。

後半生は、捨てれば捨てるほど、心も体も楽に軽くなっていきます。軽くなるということは、追い風が吹いてくれば自分の足で歩かなくてもすむということです。風が押してくれますから、どんどん前に進んでいきます。

自分の今のポジションがわかったら、安心して風に吹かれていくことができるようです。

(P.98〜102:『宇宙法則で楽に楽しく生きる』小林正観/廣済堂出版:2016年)

この内容に付随して、人生の折り返し地点を過ぎてとか、後半戦だからといって、コースを逆走してスタート地点に戻る/戻れるわけではありません。

振り返って"来し方"を見ることはあっても、あくまで、前に前にと進んでいくうちに、グルっと一周するようにして、元のいた場所=スタート地点に行き着くイメージかと思います。

いろいろあっての今現在、また、いつも「今、ここ」で最善を尽くすことでしか、次なる(興味深い)展開を迎えられないのではないでしょうか。


四苦八苦のとらえ方

人それぞれに生きていて思い悩む、いろいろと思い悩んでしまう(ことが多い)のは、自分の"思うようにいかない"ことが多いから。


仏教的な教えにある「四苦八苦」は以下の通り→

生きている上で避けられない、①生きる、②老いる、③病む、④死ぬことの「生老病死(しょうろうびょうし)」が四苦。

人が人として生きている上で避けられない、残りの四つの「苦」が→

「愛別離苦(あいべつりく)」・・・愛する者と別れる苦しみ

「怨憎会苦(おんぞうえく)」・・・怨み憎んでいる者と会う苦しみ

「求不得苦(ぐふふとく)」・・・求めるものが得られない苦しみ

「五蘊盛苦(ごうんじょうく)」・・肉体や感覚があるがゆえの苦しみ

これを合わせて、「四苦八苦」(前段の四苦と、別の四苦を加えての八苦)と言い表しています。


この「四苦八苦」について、「苦」とつけてあるのでそのまま「苦しみ」と考える向きがありますが、 本来的な意味合いとしては、「(自分の)思い通りにならないこと」だそうです。

その「思い通りにならないこと」をどうにかしようとする、しかし、どうにもならない、または、そういうことが多いために、人は思い悩み、そして、「苦しみ」につながってしまうのではないでしょうか。


生きているとどうしても抱えがちな、この「苦しみ」を回避する方法として、ひとつは「思い通りにならないこと」をそれとして、ただそのままに受け入れる。

また、もうひとつ上の段階として、思いそのものを持たないという構えが挙げられます(難易度高め)。

物事をあれこれ思う気持ち=思いがあるがゆえに、「思い通りにならないこと」も出てくるので、そもそもの話、それ自体がなければ悩むこともないという理屈です。


そういうことを見知った上で「思い」を持つのだとしても、しかし、「絶対にそうなりますように!絶対に思い通りにするぞ!」と力むほどに、「思い通りにならないこと」につながりかねません。

逆に、「こうなると嬉しい、楽しい、幸せ」な方で物事を思うようにして、極力リラックスして「そのうち、そうなると良いけどね」くらいの、ほのかに思う様子が無理がなくて済みそうです。


大きな流れに乗る

これは決して、「どうしたものか」と深刻に思い悩んでいたわけではないでしょうが、当初、旅行作家として活動していた小林正観さん。

全国各地に行って滞在していると、その時々で相談を受けるようになり、また、人相や手相も見てと、次第にその数が増えていったそうです。

そこで、自分の考え、悩みへの対処、普段からの心構えなどを冊子(コピー)にまとめて配れば、人のお悩みは解決し、自分に来る相談は減るだろうと考えました。


しかし、その冊子(コピー)を配ったら配ったで、それが多くの人に知られるところになり、自分の意に反するように、以前にも増して相談の数が増えてしまいました。

これは、どうやら"そういう(大きな)流れ"だとして、自分ではどうしようもないと思い定め、逆らわずに相談に乗るようにしていきました。

その結果、多くの人の求めに応えていくうちに、本の出版にもつながり(生前ではおよそ60冊、そして、その後も出続けています)、、全国各地、多い時には年間300本ほどの講演活動につながっていきます。


人生の「前半生と後半生」で分けることなく、早い人では20代、30代のうちから、ある種、呼ばれるようにして、そういう流れに乗ることもあるのでしょう。

自分でこうしよう、ああしようと思うことも必要だけれど、"人に喜ばれるように"やっていくうちに、自分の果たすべき役割に気付いたり、その役割に自ずと収まっていったりするようです。


よき仲間を得ること

お釈迦さまの十大弟子のひとりで、30年もの長い間付き人をすることになる「多聞第一尊者」アーナンダはある時、こう尋ねました。

「お師匠さま、気づきを得ました。よき仲間を得るということは、聖なる道の半ばまで来たと思っても良いのではないでしょうか?」

ここで言うところの「聖なる道」というのは、心に曇りや苦しみがなくなり、いつも明るく穏やかに生きていけること、と解釈します。


アーナンダのその問いに対して、お釈迦さまは「そうではありません」と答えました。

「アーナンダよ。よき仲間を得るということは、聖なる道の半ばではない。聖なる道の"すべて"である。よき仲間を得るということは、暗闇の中で迷った時に、あなたの手を引いてくれる友人がいる。また、その暗闇を照らしてくれる友人がいる。それをよき仲間と言うのだ」と。

この場合の「仲間」は、一緒に遊ぶ間柄、遊び仲間というより、生きる上での"悩み、苦しみ、苦悩、煩悩"を少しでも軽減してくれるような、そんな「気づき」を与えてくれる相手のことではないでしょうか。


たとえば、まったくの暗闇の中では、私たちは灯火なくして歩くことはできません。

「よき仲間」とは、まさに暗闇を進む時の灯火のような存在で、苦しい時には励ますとともに、事態の解決を図る方法を教えてくれるわけです。

そして、喜んだ時は、ともに喜びを分かち合ってくれる、そういう「ありがたい」存在なのです。


自分自身が、少しでも聖なる道を目指し、その行き着く果てを望もうとしていても、いつかたどり着くかどうかではなく、実はすでに多くのものをいただいているのかもしれません。

いわゆる「幸せ」にしても、(今の不足を埋めるように)何かを達成した、何かを手に入れたから得られるものでもなく、すぐさま"今、ここ"で感じ取るものです。


「四苦八苦」の項で取り上げたように、生きるということは、すべてが思い通りになるわけではない、むしろ思い通りにならないことが多いのかもしれません。

その意味で、「よき仲間を得る」ということは、聖なる道の半ばどころの話ではなく、その"すべて"であると言うことができるのです。

お互いに道を照らし合い、楽しく生きていくには、自分自身が「よき仲間」を得ていくと同時に、自分自身も誰かにとっての「よき仲間」であることが大切です。


ありがとうございます。

<参考・関連>

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傍島康始(そばじまやすし)/次の"高み"へ@千葉:展示会・イベント関係従事、飲食店勤務などを経て、新しい働き方&仕事の仕方を模索中*#西野亮廣エンタメ研究所#五星三心占い#銀の羅針盤*ロック、メタル音楽が好き*"1/fゆらぎ"の声を出したい♪

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傍島康始(そばじまやすし)

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